大草原でサムアップ
ロシア製のおんぼろジープを降りた途端、どこからともなく人が集まってきて、おれはすっかり取り囲まれてしまった。動物園の見世物、さながらである。
大半の人々は遠巻きながらにおれを見つめていたものの、一人の若者が悠然と近づいて来た。そこでこちらから挨拶をしたところ、
「アー、サンバイノウ」
と若者は言った。赤ら顔が特徴の民族ではあるが、彼の頬は殊更に赤みを帯びており少年のようだった。
なんでもおれはこの地を初めて訪れた外国人だという。もともと旅行者など訪れるはずのない場所であるし、ノモン・ハン戦争(事変)のルートからも大きく逸れている。ありえなくはないことだ。モンゴルではこのようなことがたびたび起こるから面白い。
遊牧民たちは基本的に寡黙でシャイだ。四六時中しゃべっていないと気がすまないインド人とは真逆の性格をしている。とはいえ遊牧民は親和性がないということではなくて、ただ単に無骨なだけである。浅黒い顔は威圧感があるが、いったん笑うとくったくのない子供のような表情をみせる。ごくたまに襲われる人もいるけれども、旅人にはおしなべて優しい。

写真を撮り、酒を飲み交わし、モンゴル相撲をする。
おれの遊牧民との交流法はパターン化しつつあり、やはりここでも同じようにした。理由は分からぬものの遊牧民たちは例外なく写真が好きだ。撮るのも、撮られるのも喜ぶ。バック・パックからカメラを取り出した途端、なにも言わないうちに人々はちょこんと一ヶ所に固まった。つくづく可笑しい。
ジープを降りて一番始めに近づいてきた若者がとりわけ好奇心が強いようだ。辛うじて聞き取れた単語によれば、おれと同い年であり、家庭もちであり、「おまえはいいやつだ」と言っており、そしてしばらく俺のうちに泊まっていけ、ということなのであった。
「ところで、なんて名前だ?」
おれは、そこそこに自信のついてきたモンゴル語で名前を聞くと、
「オクィ!」
彼は答えた。
オクィが羊追いを手伝ってくれという。遊牧民は「誰でも馬に乗れる」と思っている節があるのだ。幸い、モンゴル馬にも慣れてきているところであったが、何せ羊追いなんぞしたこともない。とはいえ断る言い訳も見つからず、ここはヤケクソに「任せとけ」というしかないのである。
ところが実際は簡単なものだった。おれの馬術が優れているから、ということはまったくなくて、馬がよく調教されていたのと、羊の性格が案外に単純だったからだと思う。
羊追いをするためには数人いる場合、皆で包囲網を作る。そして然るべき方向を空けておけば羊たちは自然とそちらに向かう。羊は群れて行動するものの、性急に移動させようとすると必ず何匹か包囲網からはみ出してしまう。だから包囲網を目的地に向けてじりじりと移動させつつ、時々発生するはぐれ羊を群れに追い込む。これが羊追いの仕事だ。
羊を追うには、声や音で威嚇していく。手ごろな棒キレをビュンビュンとふりまわしたり、その棒でオノレの履いているブーツを叩く。空を切る音とブーツを叩く音で、羊が逃げるという案配だ。イヌですらやってのける仕事である。人間であるおれにできないわけがない。
面白いほどに、思った通りに羊が動く。「おお、おれってすごいじゃないか」と我ながら感心してしまった。そんなおれの様子をみてオクィは「オクィ、オクィ」と連呼した。なんか変だな、と思いつつおれも「タカ、タカ」と自分の名前を叫んだ。
夜。オクィ家で宴会。
酒を飲んでもあい変わらず「オクィ、オクィ」である。日本でもこんなやついるよな。「えーとね、ヨーコね、この洋服が欲しいのー」と一人称にそのまま自分の名前を使うやつだ。
だからおれもオクィの口調に合わせることにした。タカ、ニホンジン。タカ、酒ノム。タカ、楽シイ。
と、いきなり通訳が爆笑する。なぜ、笑う。
「タカ、オクィじゃなくてOKだ」
言っている意味が分からない。
「名前を聞いたって? いや、それ通じてないんだよ。それで彼はとりあえずOKといったんだ。それが唯一、知ってる外国語だから。オクィはOKのなまり」
…ということはだ。
改めておれがモンゴル語で名前を聞くと、オクィは何食わぬ顔で本名を答えた。
それがどういう名前だったのか――、いまだに思い出せない。
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2005年05月19日 紀行[国外] トラックバック:0 コメント:0
雨、のちコンドーム
カルカッタにはいつもコンドームが浮かんでいた。
荒木飛呂彦の漫画(『ジョジョの奇妙な冒険』15巻)には次のような記述が出てくる。
人口1,100万人。浮浪者の数200万を越す。19世紀のイギリス人はこの街(カルカッタ)を『この宇宙で最悪の所』と呼んだ。
おれがインドのカルカッタを訪れた時は、浮浪者の数は減っていながらも依然としてキタナく、おぞましかった。当時、安宿に投宿していたおれは、「恐ろしいから外に出たくない」と言って引きこもりになってしまった旅行者を何人も見た。バック・パッカーたちはこれを「カルカッタ・ショック」と呼ぶ。
十年ほど前に、カルカッタ中の浮浪者が忽然と消えたことがある。人伝にきいた噂では、深夜何台もの大型トラックが街に現われるやいなや、そのまま山の中に消えていったという。そして翌朝、カルカッタの街に浮浪者の姿を見ることはなかった。
都市伝説の類であるが、インドは中国と同じくこのような話にことかかない。それでも実際にやりかねない勢いがあるため、はっきりウソだとは断定出来ないところがある。
おれがカルカッタに入る2週間程前に、インドは雨季へと突入した。インドの雨は天井をぶちぬかんばかりの圧力があり、成るほど熱帯地方のスコールとはこのようなものなのだろうな、としはしば感慨にふけった。
カルカッタは未だ下水処理工事が整っていないらしく、大雨になると街はしばしば水没する。そのは「お祭り」と言ったら語弊があるけれども、ちょっとしたイベントのようなものだった。慣れているとは言えども慌てふためくものなど一人もいない。車夫は膝まで使った汚水の中をじゃぶじゃぶと歩き、飲食店も床下浸水状態のままごく普通に営業する。人力車に到っては、水没してくれた方が稼ぎが良くなる、と言って喜んでいたりした。お洒落した連中は衣服が汚れるのを嫌って、車高の高い人力車を利用するからだ。誰もが呑気で、飄々としていた。河川が氾濫してもケロリとしていたのは昔の日本と同じだろう。

このような洪水状態になると街中を漂うコンドームにしばしば出合った。汚水を漂い流れるヨレクシャのコンドームは何とも卑猥でどこか情けない。そして、どういうわけかこれがまた大量に見つかるのだった。
そんなわけで、先日知ったニュースが面白かった。ニュースによると何でもインドではコンドームを“本来の使い方”で使っている人々はわずか25%に過ぎないという。
では、後は何に使っているかというとサリーを作る時に使用する場合が多いのだそうだ。インドの民族衣装・サリーを製造する際、ミシンの糸巻き部にコンドームを取り付ける。すると、コンドームの潤滑剤によってミシン機器が滑らかに動くという仕組み。
インド人は自国文化を尊重する民族で、時折マクドナルド焼き討ち運動や、バレンタイン撲滅過激運動が勃発する。だから電子機器や乗り物にしても、優れた外国製品を取り入れず、劣悪な自国製品(本人達はこれが一番優れていると思っている節がある)で頑張るのだ。それにしてもミシンにコンドームを用いる発想は何とも素晴らしい。
そうか、あの時流れていたコンドームはサリーを作るために使われたものだったのか。そう思うと、何だか微笑ましい。本当に「使った」可能性も25%あるけど。
ところ変われば人変わる、というが、ところ変わればモノも変わるのである。
参考記事:
http://abcdane.net/blog/archives/200504/indo_condom
写真:
カルカッタでサリー着てオカマ化してインド人にもてもて
2005年04月28日 紀行[国外] トラックバック:0 コメント:3
あしたはポカラ (後編)

生きたまま棺桶に詰められて輸送されているような気分である。1cmたりとも動けない状況とはこのことか。
じめじめとしたおっさんの肌が貼りついてくる。窓を開ければ大量の砂埃が舞い込んでくる。インド人の嬌声。ガタピシバスの放つ異音。ドアを叩くハンマーの音。何よりもまして、前の席に接した膝が痛い。バスは壮絶に揺れつつも、刻一刻とテロリスト多発地帯に近づいていく。
とてもじゃないが、マトモな神経をしていては気が狂いそうになる。そこで現実逃避をすべく眠ることを試みたものの、慌てて思い直した。こんな人ごみの中で寝てしまってはまた財布をスられてしまう。数日前、おれは列車の中で財布を盗られたばかりだった。
と、突然ひとりのおばちゃんがサリーを振り乱しつつ、おれの胸に飛び込んできた。切羽詰った表情が眼前にさしかかる。荒い息づかいが聞こえる。うわっ、ダメダメこんなところで公然猥褻はやめてくれ。
しかしながら、彼女はそのままおれの膝を乗り越えていき、一目散に窓を開ける。そして壮絶なゲロ、ゲロ、ゲロ。何だか足元が冷たくなったなと思えば、彼女のヨダレがおれの足にかかっていた。
ホントに頼むから、お願いだから勘弁してください。おばちゃんは、いつまでもおれの体に乗り続け、嘔吐が止まらない。そのうち段々と気の毒に思えてきて、声をかけ…ようと思ったのだが、コイツはなんというクソババアか。ババアはゲロを吐くドサクサに紛れて片手はまったく別の方向にあり、おれのバックパックの中身をまさぐっているのだった。とんでもないクソババアだ。
早朝に出発し、半日が過ぎた。陽は既に傾きつつある。
ネパールの国境に近づくにつれ、乗客は一人降り、また一人降りと少しずつ減っていく。これで目下の問題であったスシ詰状態からは開放されたのはいいものの、日が暮れるころにはついに乗客はおれひとりとなってしまった。こうなってしまうと逆に不安である。
バスのヘッドライトは壊れているか、もしくは壊れかけの状態にあるらしく、座席から見る限りは道路がまったく判別出来ない。舗装された道はとうに抜け、急な山道に入っているわけで、よくぞこんな暗闇道を走っているものだと思う。切立った崖も多い。崖道には当然ガードレールなどというものはあるばずもなく、おれの命はそっくりそのままドライバーが預かっているということだ。
間もなくして、バスは山のど真ん中で停止した。初めは休憩かと思ったものの、待てども待てども一向に動く気配がない。なんだ、何が起こった。ついにテロリストが現れやがったのか。
すると、ドライバーは突然バスを降り、そのままどこかに消えてしまった。訳も分からず取り残されたおれ。もう一人の乗務員が残っていてくれていることだけが、心の救いではあったものの、彼は英語がまったく話せないので、コトの事態を推し量り様もない。ただ「ノープロブレム、ノープロブレム」と連呼するだけである。何もない真暗闇の山道に放置しておいて「問題ないよ」も何もあったもんじゃない。ただただ-本当にテロリストが襲ってこないのを祈るばかりである。
そのまま一時間程放置されただろうか。ようやくしてドライバーが戻ってきた。ちくしょう、何してやがった。はやくバスを走らせやがれ。
「NO」
「なんだって?」
「Bus, brake, break」
バス、ブレーキ、ブレーク。バスのブレーキ、こわれた。ははは。おれは体中の力が抜けていき、その場にへたり込んだ。
結局、おれはさらに数時間放置され、迎えに来た別のバスに乗って、国境付近の街に辿りついた。
翌朝、国境を越え、バスを乗り変え、ポカラに辿りついたのは夕方のことであった。幸い、テロリストには出くわさなかった。
2005年04月27日 紀行[国外] トラックバック:0 コメント:2
あしたはポカラ (中編)
ひとまず揺れが少なそうな真ん中の席に座ることにした。乗客は殆どいない。ましてや旅行者はおれ1人だけだ。
やはりこのような状況で乗るのは早計だったかなァ、と急に悔恨の念にかられ、頭を掻きむしっているとポツリポツリと乗客が増えてきた。ややホっとする。
道連れは多ければ多いほど良い。死ぬ時ゃみんな一緒だよナ、おれ達ゃ運命共同体でぇ! と見知らぬ人間に親愛の情がどんどん深まっていくうちにも、乗客はどんどん増え続け、バス内はあっという間に人だらけとなり、挙句の果てには2人乗りの席に4人座らねばならない状況となった。
おれはガイジンだし、体もデカいから大丈夫だろうとの楽観的観測はガラガラと崩れ落ちる。インド人のカレー臭気に満ちた吐息を耳元にたっぷりと浴びつつ、ほんのわずかな時間ながらもおれは早々に汗だくの状態に陥った。なんともこのバス、一昼夜にわたって乗り続けなければならない。
前の席に座っていたパキスタン系おっさんがとつぜん怒声を挙げた。怒りの矛先は乗りこんできた2人組のインド人に向けられているらしく、いまにもケンカが始まりそうな雰囲気である。
どちらが先にいちゃもんをつけたのかは分からない。しかしながら今現在は印パ核戦争が勃発するかしないかという微妙な政情にある。双方とも始めはわめき散らしているだけであったが、次の瞬間パキスタン系おっさんがいきなり腰のサーベルに手をかけた。
おい、ちょっと待て。それはやばいんじゃないのか。
とはいえ、サーベルを片手に持って激昂しているパキスタおっさんを制するのはなかなか勇気が要るので見てみぬふりをすることにした。こっちに来たらバックパックでも投げつけよう。
そうこうするうちに、パキスタおっさんと2人組インド人はバスを降り、なんらかの決着をつけることになったようだが、この先は知らない。パスが出発してしまったからだ。誰も死んでいませんように。

テロリストの襲撃を受けたバス インドのバスには乗務員が2人いる。1人はドライバーで、もう1人は料金収集や客引きなどに努めるのだ。ところが、おれの乗ったバスはもうひとつの重要な仕事が混在していて、それはつまり「バスの扉を閉める」という役目だ。
これはどういうことかというと、このオンボロバスは走行中にも関わらず突然がっぱりと扉が開いてしまうのだ。やはり壊れているのである。扉はただ閉じただけでは閉まらず、叩きつけるように閉めこまないとダメなのだ。だから乗務員の片手には巨大な木槌が握られており、開閉のたびに扉を叩き込む。それは2度、3度とブッ叩いてようやく閉まるので、その度にたいそうな騒音がバス内に響き渡る。どがちゃん、どがちゃん。こんなボロバスではテロリストの襲撃には到底耐えられるはずがない。火炎瓶1本でバラバラになるんじゃないのか。
憧れのポカラ行が地獄行き直行バスとなりつつあるので、おれは楽しいことを考えることにした。毎日、食い物の夢ばかりみているので、食い物のことを考えるのがいい。脂の乗ったバラ串から濃厚な豚骨ラーメン、果てはモンゴルでゲロが出る程に食いまくったキャビアのことまで考える。
と、世界三大珍味にいたった所で、どうしようもないことを今更ながら思い出した。以前、確か何かの本で読んだことがある世界三大悪路の話。
それは複数説あるものの、代表的なものは中国の「ウルムチ~カシュガル間」、カンボジアの国道一号線。それともうひとつが、このインドからネパールのポカラに向う山道であった…ような気がする。
ダメだ。ますます陰鬱たる気分になってきた。
一つ目のバス亭で止まった時、バス内に売り子の兄ちゃんが乱入してきた。商品はジュース、お菓子の類ではなく数珠、というのがいかにもインドらしい。それにしても呑気な商売である。今や観光客用のバスが走っていないのだから仕方ないのかも知れないけども、こんな得体のしれない三流土産まがいの数珠を地元民が買うわけがないのだ。勤労青年よ、がんばりたまえ。
と、思いきや、青年の数珠は飛ぶように売れている。乗客から呼ばれる度に青年は車内を奔走する。首にジャラジャラと巻いた数珠が次々と減っていく。
まったく理解に苦しむ。こんな数珠をなぜみな欲しがるのか。いや、数珠を買った客を見てその理由が分かった。みな数珠を買うやいなや、いきなり祈りはじめやがるのである。そんなわけで車内は、数珠を擦り合わせる音でいっぱいだ。もしかしておれはたいへんなバスに乗ってしまったんじゃないのだろうか。
皆が皆、イスラム教徒の如く申し合せたかのように祈っているとおれもひどく不安になる。仕方ない。ここは数珠を買っておくべきだろう。
そこでおれが手を挙げて青年を呼ぶと、彼は申し訳なさそうにいった。
「もう売りきれだよ」
2005年04月25日 紀行[国外] トラックバック:0 コメント:0
あしたはポカラ (前編)

どの旅行会社を回っても断られた。こまでくるとムキになる。
4件目の旅行会社を回った所で、ようやく「地元民向けのバスなら出ているかもしれない」との情報に辿りつき、クタクタヨレヨレになりつつもやっとこさネパール行きのバスチケットを手に入れたのであった、おれ。
2002年夏、インド。
『ポカラ』という雑誌を高校生の時分に愛読していた。「旅と冒険の人間ドラマ誌」という陳腐なキャッチコピーはいただけなかったもののその内容となると硬派かつ重厚で、「アウトドア」ブーム全盛期だった当時「ファミリーキャンプ」等には一切目をくれず、旅に焦点を絞った雑誌は当時この『ポカラ』だけだった。記事の大半は、作家と旅とどっちが本職なの? というロクデナシライターばかりによって書かれていたりして、何かしら心の琴線に触れる雑誌だった。
『ポカラ』を知ったのは、これがきっかけであった。その名の由来はネパールにあるポカラという地名からとったという。これも初めて聞く場所だった。とりあえず語感の響きが良い。つくづく脱力感がある。気負いがない。どんな所か想像もつかないが、さぞかし素晴らしい場所なのだろう。今はどう足掻いても行けないものの、この地を踏めることができたらどんなにいいだろうな、と思ったのだった。
インドのとある貧乏宿に寝泊りしていた時、何気に地図を眺めていたらポカラ行きのバスが出ていることにふと気がついた。なんだ行けるじゃないか、あの『ポカラ』に。
翌日、おれは早速チケットを手配すべく旅行会社に出向いた。しかし、どこを回っても「今はダメだ」と断られられる。何でも「マオイスト」という極左テロリスト集団が武装蜂起して暴れまわっているのだという。国境を越えるバスもこれまで何度となく襲われたらしい。
なるほどネットカフェで情報収集に努めてみれば、マオイストの脅威を報じるニュースばかりであった。
この一ヶ月、マオイストに殺された人々は400人。マオイストは農民を中心に構成された武装市民グループで、ネパールの共産化を狙っているという。ゲリラ戦法にて政府軍と戦い続けており、山間部を中心に出没する。
そしてポカラはまさしくその山間部を通りぬけねば行けない場所だったのである。
おれは迷ったものの、やはりポカラに行くことにした。
元来は「明日出来ることは明日に伸ばせ」を信条とする生来のナマケモノであるが、今置かれた状況を考えると「明日」がいつになるのか分からない。それは五年先、十年先かもしれないし、永遠にこない可能性もある。そして何よりも唐突に飛びこんできた「ポカラ」という単語が、何とも運命的な出合いに感じられたのだ。
そして、おれはあちこちの旅行会社を散々たらい回しにされたあげく、地元民しか利用しないというバスのチケットを手に入れることが出来たのだった。
そして「明日」は明日、来るのだ。チケットはやっぱりボラれていたけど。
バスの発着時刻はかなりの早朝である。宿のオーナーに別れを告げ、おれは朝靄に包まれた町中を歩きつつ、バス広場へと向う。広場は人人人で責めぎあい、その喧騒を切り裂きながら前進する。
バスの数もむやみやたらと多い。そしてどのバスも払い下げ品らしく、異様にボロい。チケットにはバスの番号が書かれているものの、どのボロバスも車体に書かれている番号が霞んでおり、これでは番号の確かめようもない。
広場を奔走している内にも、時間は刻一刻と過ぎていく。おれは段々と焦りを覚えながらも、件のバスを懸命に探す。
と、端の方にまったく人が群がっていないバスがあった。しかもとびきりボロい。入口扉が傾いている気がするのは気のせいだろうか。
よもやと思い、「ネパール?」と運転手に尋ねると、彼は首を横に振る。ああ、やっぱりか。おれは安心半分、絶望半分の複雑な心境になり、神に祈りたくなった。
インドではNOの場合は首を縦に振り、YESの場合は横に振るのである。
2005年04月21日 紀行[国外] トラックバック:0 コメント:0