ところで最近、鬱病の様子がおかしい。これまで一時的ウツ抜け出し状態は何度も経験してきたものの、この度の脱ウツがちと違うのだ。つまりは、ソウになるのである。
鬱病が悪化して躁鬱病になってしまうケースは確かにあるらしい。そしてソウ状態においては「自分が今、ソウであること」を認識できないそうだ。でも、おれはしばしば「ソウのおれ」を認識してしまう。
ソウとはウツと正反対の状態で、万能感に満ちた状態だ。「おれは何でもできる」「おれは世界を救わなくちゃいけない」と元気ハツラツ状態になってしまう。
これがひどくなるとクソを垂れ流したり、人に投げつけたりもする。「自分のクソはきれいだから良し!」とするのだ。
医者にかかる金がなくなってしまったので、自分がソウなのかどうなのか判別がつかない。とりあえず躁病に似た状態が頻繁に起こるようになってきた。あまり長くウツが続いたために、通常時の自分を取り戻してもそれを「ソウ」だと感じているだけなのかもしれない。
ともかく、おれはある日とつぜん躁転したのであった。
そして何を思ったのかおれはおもむろにパソコンの電源をつけ、求人情報サイトを調べ、なんとなく上から二番目に記載されていた会社に電話をしてしまう。ああ何やってんだ、おれ。やめとけ、おれ。
何せおれは二日前まではウツ真っ只中であったのだ。フロ、メシ、歯磨き、洗濯、着替え、一切合財の生活所作をすることは不可能で、ただただ生きるだけで精一杯の状態だったのである。
こんなことをやってしまったら後で地獄の苦しみを味わうことは充分わかっている。ところが擬似ソウ状態の自分がおれを突き動かしてしまうのだ。
どもりながら受話器に向かって勢いよく話すおれ。淡々と受け答える採用担当者。
…はい、分かりました。では明日うかがいます。
ソウのピーク状態に達しているせいか、やっちまった感はなく、どちらかといえば後の祭りでどうにでもなれのワハハ感がある。それよりもさしあたっての最大の問題は、履歴書と証明写真か。今、財布の中には900円しかない。これがおれの全財産である。
致し方なし。履歴書は手作りでいこう。しかし、証明写真についてはどうにもならない。写真は添付しないつもりであったが、採用担当者が「くれぐれも写真を…」と念を押しやがったのだ。
慌てて手元の写真を探すも、「上半身裸の俺」とか「サングラスかけて一升瓶を抱いた俺」とか「タオル鉢巻した俺」「銛を掲げた俺」などとロクなものがなく、これらを履歴書の写真に使う勇気はさすがにない。
証明写真代=半月分の食費。たいしたギャンブルだよ、くそったれめ。
幸か不幸か面接当日もソウ状態が続いていた。
ソウならば人との会話は出来るものの、それはトチ狂った酔っ払いとさほど変わらない。とはいえ、ウツならウツで人と会話することすら無理な状態となる。ウツならばひっそりとバックれてしまうところだけれども、ソウゆえに怖いものなしである。
面接会場であり、会社の事務所でもあるマンションの一室に入った。
「まず筆記試験を行います」
いきなり筆記試験かよ。よもやバイト如きに筆記試験があるとは思わなかった。もしかすると応募事項には書いてあったのかもしれない。でも、ソウのおれは詳しく内容を見ていないのだ。そんなわけで、すいません。筆記用具を貸してください。
「試験時間は15分間です。その後に面接しますので」
手渡された問題をまずはパラパラと眺める。
おれの得意分野は文学と国際情勢なのだけれども、自信をもって解答できるのは半分程度だろうか。ただ問題量が半端なく多いのはありがたい。速記と速読には自信があるのだ。下手な鉄砲…ではないけれども、問題量を稼げば何とかなるような気がする。
と、怒涛の勢いをもってしてガリガリ解答を埋めてやろう、そう意気込んだところボールペンが書けない。筆圧しか残らぬボロペンなのである。
おれは慌てて面接官を呼ぶ。一向にきてくれる気配のない面接官。そういえば面接官が去った直後、「チーン」とエレベータ音が聞こえたような気がする。さては別階にいるのか。
さて困った。時間は残り10分しかない。とりあえず現状を打破するために思いついた解決策は4つだ。
1.社内を物色し、ボールペンを探す
2.血文字
3.叫ぶ
3.あきらめる
1については、部屋内にある机は一応見渡した。ところがどういうわけか“書くもの”が見つからない。引き出しをあされば何とかなりそうなものの、部外者であるおれが机の中を物色してしまっては犯罪だろう。却下。
2の血文字は、仮に全問正解したところで、「おれはキチガイです」とアピールするようなものだ。これもダメだ。
3は、まず叫ぶ言葉を考えた。妥当な叫び声は「すみませーんっ!!」か「ボールペンくださーいっ!!」だな。いやいや、ここは自社ビルではないのだ。それはちょっと恥ずかしいし、第一、階下か階上にまで声が届くものだろうか。
すると残るは4だ。諦めてしまおう。これにはちょっとした目算があって、さすがにボールペンが書けないまま制限時間が過ぎてしまったところでは、仕切りなおしを提案してくれるはずだ。
残り時間5分。
面接官が戻ってくる。おれはすぐに事情を説明した。
「ああ、すいませんでした。今すぐ別のボールペンを持ってきます」
「いえいえ、いいんですよ。むしろ、得したのかもしれませんしクソ面接官さん」
おれは最後の言葉が聞こえぬように返事する。すると、面接官は
「じゃあ、残り五分がんばって下さい」
ちょっと待て。ふざけるな、この野郎。ボールペンはお前のミスなのに、その責任を被るのはおれかよ。仕方ないので必死に解答を埋める。このような事態となってしまっては、おれを落とす口実を作っているとしか思えない。唯一できることは「たった五分でこれほど沢山の解答をできる男」としてアピールするしかないわけだ。
ところが焦りのあまり、漢字が思い出せない。だいたい字を書くこと自体が久しぶりなのである。「貼る」が書けない。「報酬」はいったいどんな漢字だったか。
問い、アフィリエイトについて解説せよ。
答え、自サイトに広告をはり、サイト訪問者がその広告を見て商品を買うことでサイト管理者がほうしゅうをもらうこと。 おお、書いてみたところで何と情けない。「ほうしゅうをもらうこと」か。破壊性バツグンである。
問い、近松門左衛門の代表作をあげよ 「そね崎心中」。これには自信があるものの、“そね”の漢字が分からない。じゃあ、あれでいこう。あの妙にエロチックなタイトルのやつ。70年代日活ポルノ映画風のあれだ。
『女殺油地獄』だっけか、『女油殺地獄』だっけか。はたまた『淫蕩女油責め』の可能性もないわけでいない。しかし、これも間違うと危うい。ただの変態である。
土壇場にきてあらぬ妄想を抱いたおれは多少、ニヤついていたかもしれない。いつの間にか面接官が背後に立っており、試験終了の旨を告げられたのであった。
おれの頭の中には「半月の食費を無駄に失った」という失意の念が渦巻くばかりである。そんな状態のまま面接は程なく終了した。たかがボールペン一本ために、おれは半月食えない結果となったのだ。さらば、ボールペン。おれは一生ボールペンを使うまい。これからはサインペンだけを信用しよう。
面接官との別れ際、よほどボールペンの恨みを伝えようかと思ったが、辛うじて押しとどめた。面接官はおれを見送りながら言った。
採用します。明日から来てください。
八月末。こうしておれは何故か広告代理店のコピーライターとなった。
2006年09月12日 雑文 トラックバック:1 コメント:1