こういう内容を書くのは最初きりの最後ですな。初めまして隊長です。
おれは金輪際このさき結婚するまいぞ、と堅く誓ったのが17歳の時分である。
映画『植村直己物語』を見た時だった。
ところがその約定もあっさりと破れ、このたび結婚することとなった。
正直なところ、嫁には申し訳ない気持ちである。17歳の誓いは未だおれの中に根付いているからだ。
とりあえず、嫁に映画を見てもらうことにした。監督は佐藤純彌。代表作は『おろしや国酔夢譚』の他、近作では『男たちの大和』が挙げられる。『北京原人 Who are you?』も彼の作品だ。いまいち分からない人である。
ちなみにおれの文章の根幹は、恐らく植村直己にあるのだと思う。
当時、それなりの文学作品は読み込んでいた中で、冒険家の文章にひかれた、という事実はある意味ではショックだったし、その後もかなり尾をひいた。
それは文体に影響を受けたというわけでもないので、“作家として影響を受けた”とはならないのだろう。けれど、“植村直己という人間が書く文章”というもっと大まかなところではかなりの影響を及ぼされた。
実際、彼の書く文章は高い評価を貰っていて、多くの文筆家から絶賛されている。彼の文章はひたすらに透明なのだ。気持ち悪いぐらいに純粋である。
自身、文章は技巧や思想、経験から生まれるものだと思っていたので、これはショックだった。なんの技巧も虚飾もなく、生命で書いている文章だったのだ。
植村直己といえば、世界的な知名度がある。20年経った今でも、ネパールのポーターや北極のエスキモーの間で、伝説的に語り継がれている。
だから、さぞかし登山家としては相当な実力者と思われがちだけれども、本当は大したことない。
登山家としての評価は著しく低いのだ。親友の小西政継(登山家)ですら、「植ちゃんは登山家としては三流だ」と著書の中で述べている。
植村直己の鈍くささは有名で、学生時代のあだ名は「どんぐり」。それは結局、死ぬまで変わらなかったようで、 全盛期の頃ですら反射神経・運動神経が問われるゲームでは(トランプかカルタか知らないけど)必ずビリだったという。
努力ができる、ということはひとつの才能である。誤解を恐れずに言うと、彼は努力の人でもなかった。他人から見たらそれは努力に映るかもしれないが、本人にとっては努力を努力と思っていない節がある。
単純に好きだから、人に迷惑かけたくないから。それだけの理由だった。
彼の功績の裏にはもちろん人間性や、抜きん出た体力、頓才によるところもあるのだけど、特に卓越していたのは、好きなことにかける覚悟の量が違った。
そして、その覚悟を時下に浴びせられていたのが妻の植村公子さんである。
『植村直己物語』のもう一人の主人公は彼女だ。
結婚する際、親しい仲間からは「お前は結婚してはいけない人間だ」と散々罵倒される植村直己。
結婚早々、妻を残し外国に飛び出す植村直己。
家庭にはほとんど寄り付かず、仕送りすらしなかった植村直己。
妊娠したことも知らず、流産した時も妻のそばにいなかった植村直己。
次こそが最後だ、といいつつも繰り返し家を出て行く植村直己。
帰ったら北海道に定住することを誓い、そのまま帰ってこなかった植村直己。
もうドロドロのグログロなのである。これでいて冷えた夫婦仲でなかったことが凄いが、奥さんの心労を思うとたまったもんじゃない。家庭人としては最低の人間だろう。
それでも、おれ自身はこっち側の人間でしかないことはよく分かっていた。多分、よほどのことがない限り、カタギにはなれないだろう。17歳の時からそう思っていた。そして案の定そうなった。
結果としておれは硬派のレッテルが貼られてしまったけれども、実のところはそうじゃない。女が怖いだけである。女から逃げ出しただけなのだ。
しかし、人生設計はうまくいかないのが常なのですね。おれの日記を読んでシーカヤックを始め、おれの旅行記を読んでインドにいった女と気がついたら付き合っており、気がついたら子供が出来ていた。
夜中に呻吟し続けること一週間。ある日、女に映画を見せることにした。帰ってきた感想はぽつりと一言だけである。「ありがとう」。
結婚も悪くないかもな、とふと思った。
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2007年04月01日 雑文 トラックバック:0 コメント:0