
昨年、空手の恩師を亡くしたのだ。
空手に関しては当然のこと、私生活に関してもむちゃくちゃ厳しい人だった。
最初に怒られたのは会って間もない頃、初めて一緒に飯を食った時だ。いきなり恫喝された。
「バカか、貴様は。目上の人間との食事時に肘をつくな!! 殺すぞ」
裏を返せば、おれを敬え、ということだ。当時は随分と理不尽さを覚えたものだ。しかも、彼は大学教授である。「殺すぞ」は口癖で、とんでもないキチガイがいるもんだと思った。
階段を上がる時にも、またどやされる。
「バカか、貴様。おれが階段を登っている時は後ろにつけ。降りる時は先導しろ。殺すぞ」
怒られる意味が分からない。頭に来たので、ビジネスマナー本で調べてみると、お客様が転げ落ちた時のことを想定して……、と確かに書かれてある。そんな細かいことまで気がつくはずもない。
こんな調子で怒られてばかりだった。この人はただ威張りたいだけなのだ、と思いながら、また何時どやされるかとビクビクしていた。特におれには徹底的に厳しかったのだ。
「おれが知っている人間の中でお前が一番不出来だ。だからお前が一番嫌いだ」
こんなことまでズバズバ言われる。
ところが、おれが学生を卒業した途端、その態度の変貌ぶりに驚いた。鬼の様な人だったのに、途端好々爺となった。それも気の使い方が尋常じゃない。
大人数で飯を食う。恩師は向かいの席の結構遠い位置にいる。おれの料理が少なくなると、さっと自分の料理を差し出す。グラスの酒が少なくなると、まず真っ先に気がつき、酒をついでくれる。
こう書くとなんてこともない気がするが、そのタイミングが極めて絶妙であり、素早く、また自然なのである。しかもこれをその場にいる全員(10名以上いた)に同じような気遣いを行う。
食事の席ではおれが一番年下だった。恩師が気がつく前に、おれの方が優先して周りに気を使わねば、そう思うのだけれども、どれだけ気を張り詰めても恩師より一歩遅れてしまう。
気がついた時に……という心構えじゃ駄目なのだ。常に意識しておかないと、先に動けない。とはいえ、それでは先輩方との話を上の空で聞いてしまう。
しかし、恩師本人は普通に談笑しているのである。その席にいる全員に目を光らせ、気を使っているのである。万事に置いて、すべてこの調子だった。以来、見方が180度変わった。
曲ったことが許せない性格でもあったらしい。こんな話も聞いたことがある。
教授会での飲みで超上役がセクハラめいた行為をした。当然、教授陣は保身を考え、見て見ぬふりをしたのだけれども、恩師だけは激高し、その行為を正面から難詰したそうだ。敵が多い分、信頼を寄せる人も多かった。彼らは口をそろえて言う。
「あの人ほどやさしい人は他に知らないよ」。
どやされてばかりいた現役時代、卒業寸前に一度だけ二人きりで飲んだことがある。もっともこれは誘われたというより、引退戦前の慣例儀式だ。
「お前は嫌いだ」「お前は最低だ」と言われ続けた人間と飲むのは、戦々恐々とするしかなかったのだけれども、酒が進むにつれて恩師はポロっと言葉を溢してしまい、ほんの少しうろたえていた。
「お前のことを嫌い嫌いと言い続けたが、実は一番気に入ってるんだ」
たぶん言いたくてたまらなかったんだろう。あの一言は、思い出すたびにおかしくなる。
先生、仕事で営業をする度、目上と人と食事する度、脳裏に顔がちらつきますよ。
2008年09月29日 雑文 トラックバック:0 コメント:4